こんな小説の一節が目に入った。

ラクダが砂漠に棲すめて、キリンがめないのは何故だろう?
〈背が高すぎるんです〉
― 『吊された少女』 ―

 キリンは背が高すぎて、見渡す限りが砂漠であることをすぐに悟ってしまうが、ラクダにはそれがわからず、すぐ先に緑の泉(オアシス)があるかもしれない、そんな希望を持って歩みを重ねることができるからであろう。

手のつかぬ 月日ゆたかや 初暦はつごよみ

初暦はつごよみ 知らぬ月日は 美しく

迎えた1年・365日、待っているのは炎熱や砂嵐ではなく、緑の泉であることを信じて歩みを進めていくしかない、とは言え・・・

『独来、独去、無一従者』


― 大無量寿経 ―

ひとり来たり、独り去り、いつの従う者なし。
父去り、母も昨年、たった一人で行ってしまった。私もいつか必ず一人で行かねばならない繁雑な日常にかまけつつも、いざとなれば、みんな一人ぽっち ~ 。
この峻厳な事実から目をそらすことは決してできない。で、あるからこそ。

二度とない 人生
二度とない 今日こんにちただ今

 《時》、時間・・・すべての人に平等に与えられた貴重な財産、その使い方を銘記したい。
 哲学者キルケゴールは言う「人生は、解決すべき問題ではなく、経験すべき現実である。」と。人生の問題は、単に考えているだけではその答えは見つからない。行動、そして経験する中から、絶え間なき経験から、問題解決への糸口が必ず見つかるものだ。〈目前もくぜんの目標〉は、〈最終的目標⇒夢〉が在って初めて生きてくる ということだろう。
 當山にあっては、〈目前の目標〉・・・銚子に移寺されてより300年来手付かずのままであった妙見宮再建という、先師の願行を我が重責とする《時》を頂戴した・・・行動あるのみ。
 迎えた本年、易ではひのえさる・二黒土星という星を称して見龍田けんりゅうでんに在り、大人たいじんを見るにろし』とある。龍が渕の奥底より出て来てはいるものの、未だ岸辺にいて、渕から容易に躍り出てこれない在り様・・・意のままに抱負を実行に移すには実力不足、いわば産みの苦しみの時期とも取れる。そこで大人を見るに利ろし、信頼のおける、又誠実な有縁の人材の協力が是非とも必要であると共に、地道に自らの足場・足元を固めていく《時》・・・遠慮(遠きおもんばかり)。人、遠き慮り無ければ、必ず近き憂い有り。遠きを観る眼差まなざしを養いたい。
 キリンの目線は、行く手に立ちはだかるものに不安と茫漠たる焦燥感を伴うが、さりとてラクダの安逸感では、事は大成しない。
 覚悟の《時》である。