新盆七日法要
8月1日~7日毎朝5時~
一般檀信徒の方々も、志す霊位のご回向をお申込いただけます

  誰でもが『人生の四季』(青春朱夏しゅか白秋はくしゅう玄冬げんとうの、いづれかを《今》生きている。季節の四季は、何度でも巡ってくるが、人生の四季はいつであってもたった1回限り・・・青春は30歳頃まで、朱夏は30~50歳ぐらい、一番の働き盛りであろうか。白秋は50~70歳頃まで、そして玄冬はそれ以後。
  H15年7月、師父亡き後、寺門・幼稚園運営共に朱夏を経て白秋の半ばを過ぎた今日こんにち、そのかたを振り返ってみると、猪突猛進ちょとつもうしんの連続であった。『なかば来て  高根ながめの  一休ひとやすみ』心模様を変えていかねば・・・その想い、実に大である。
 季節の四季は巡り、今年も〈お盆〉もなくおとずれる。年中行事の中でも特に日本人が昔から大切にしてきたこの行事が、核家族の中で、今や見失われつつあることは、寂しさを通り越して憤りすらおぼえる。追い討ちをかけて、一向に収束を見ぬまま第7波に突入したコロナ禍は、私達の心をむしばみ、激変させてしまったのではないだろうか。
 自らが体験したことのない《死》というものを、祖父母・両親・伴侶・子供等、身近な存在、掛け替えのない存在を失うことで、その悲しみ・苦しみの現実を直視し、生きているとは、死ぬ命をかかえていること、そして、確実にその日が近づいてくることを、先人は身をして学んできたはずである。
 恵まれた毎日を送っていると、それが当り前、感情的マンネリがいつしか人と人としての《命の尊厳》を凝視する眼差まなざしをおおい隠してしまい、二度とない人生・二度とない今日こんにち只今ただいまを限りなく見落とし続けてきたのが、経済大国日本の大きな落し穴であったといえよう。出会うということは、心と心、命と命がふれあうこと、顔と顔との〈であい〉は何とお粗末なことか! 私達の日常に〈であい〉を取り戻し、真剣に〈であい〉の道を切り開いていこうではありませんか・・・コロナ禍の中でこそ、〈お盆〉を向かえる心・・・『これでいいのか』『このままではいけない』ということ。