平成20年は、一白水星という星が中宮(定位盤の真ん中)に回座する年。易の言葉に、この星を称して『潜龍なり。用うるなかれ』とあります。・・・池の中に龍が、雲の来るのをひらすらに待って、水中に潜んでいる状況。つまり天に昇る時を待ちながら、水中に潜んで、一途に・一心に力を蓄えている姿・・・にわかに活動してはならない、という戒めと受け取っていただきたいと思います。
平成18年は「命」が問われ、平成19年は御承知の如く「偽」、即ち、偽装・偽慢が問われた社会構造の延長線上には、本年・・・政官財と民との意識格差の更なる増幅が暗示としてあります。
非常に厳しい本年の動向を大転換させる鍵は、「偽」の枝葉をバッサリと、思い切って剪定できる価値観を、私達一人一人が持てるか否かにかかっています。・・・その価値観とは、正に『自己責任の原則』と言えるでしょう。
私達が遭遇する様々な迷いや悩みの中には、どんなに苦しみ、嘆き悲しんでも変えられないもの・・・又、逆に変えてはならないもの(根気よく、継続して守りぬいていかなければならない、原理・原則・理念)と勇気を持てば変えられるもの、変えていかなければならないもの(怠惰・怠慢・惰性・・・それこそ「偽」の領域に属するもの)とがあるはずです。その両者を見極める英知・仏智を、一途に・ひたすらなる「祈りの姿勢」から、お互様に頂戴することこそが、混迷の様相が更に増すであろう本年を、前向きに、自らの課題と受け取りつつ、新春のスタートラインにつかれますことを、妙見宮御宝前より御祈念申し上げております。
合掌
昨年の9月9日(初代銚子幼稚園 園長の祥月命日)に、55年の歴史をもつ当園発園以来初めて、不特定多数の地域の方々に、お声をかけさせていただいて、『園見学会』を開催しました。
職員が一丸となって、独自に作成した、オープニングビデオ・・・そのイメージは、子供達の
あ・・・愛する心
い・・・生きる意欲
う・・・ういういしい心
え・・・笑顔
お・・・おもいやり
『偽』という暗雲がたれこめた昨年一年を振り返りましても、今、私達大人が学びなおさねばならない姿でしょう。
当園よりの、『願い』と『覚悟』を、根気よく発信し続けていきたいというひたすらなる想いでした。
平成20年度からは、「学校法人格」として再出発のスタートラインに立つ予定です。
『偽』の反語『真』・・・ひたすら・一途・ひたむき・初心。立春正月・・・恥を忘却した、今の私達には、みな全てが新鮮に響く言葉ばかりです。
當山でも、立場を超え、血縁を超え、宗派も超えて、大人たちの「あいうえお」・・・生前に心を結ぶ媒体『永代供養墓』(仏子の塔)が竣工しました。お寺は、生きている間に、多くの方々が相集う場所でなければなりませんよネ。
祈りの言葉
主よ、変えられないものを
受け入れる心の静けさと
変えられるものを
変える勇気と
その両者を見分ける
英知を与え給え
― ラインホールド・ニーバ ―
今年の初詣3日間、御参拝の方々に、お伝えした法話に引用した『祈りの言葉』でした。この祈りの言葉を忘れた結果が、残念ながら日本の昨年を象徴した「偽」であったように思えます。
「偽」の構造を払拭する価値観は「自己責任の原則」・・・これに尽きるとも強調しました。
自己本位の時代風潮は、確実に私達の心をむしばみ、政官財のリーダーに限らず、私達国民一人~も、責任や誇り、「恥を知る」という人としての美徳を失おうとしています。
現在ロードショーされています『明日への遺言』は、岡田資中将の清廉な生き様を通して、恥を忘れ、無責任社会をつくってしまった平和ボケの私達に「自己責任の原則」の厳しさを、再度強く心に刻め・・・と、呼びかけております。
「下がるほど 人は見上げる 藤の花」
當山先々代住職の座右の句でした。謙虚な目線で、下から見上げてこそ観えて来る、いたらぬ自分の姿・・・。樹齢700年を超える「臥龍の藤」の開花も、今年は早そうです。
先月は、毎年恒例の法華経の霊山七面山への登詣の旅『参拝の集い』が実施されました。この『集い』の原点は、昭和57年当時、師匠より住職を拝命された檀家4軒のお寺(清龍寺)の若者達と、平成7年初冬より仏縁あって足繁く参拝を重ねた瀧行の道場、辨財天を勧請する七面山麓奥深くに位置する雄瀧辨天堂へ詣でることが、その機縁となったものでした。
日頃の法務多忙から、いささか体調不良であった私は、七面山(約1980m)登詣を断念し、久方振りに一人その麓の辨天堂に参籠させていただくところとなり、それが、かえって良縁となって、辨天様の温かい慈しみの衣の袖の中で、一夜を過ごさせていただくことができました。・・・・・その一夜、辨天様より学ばさせていただいた教訓は、《法華経》の神髄 「南無妙法蓮華経」にも通ず、『無碍の白道』という、「信」を以て自らの人生を歩むうえでの、大切な心得の再確認であったといえます。
『無碍の白道』・・・・・神仏を拠り所とし、そのお示しいただいた道を、ひたすらに進む者には、道中にいかなる障害もなく、あたかも月明りに照らされた如き、白く明るい尊き道が遥かにのびている。
しかし、私達がこの世に生を受けた限り、所詮その様な障害・障碍無き道など、ある訳もなく、泥(妬み・嫉み・嫌がらせ・陰口 etc)の中をはいずり回りながらの人生であることは、皆さんも御承知の如き昨今の風潮です。
泥を拝む(南無)ことができなければ、妙なる清浄な白蓮華の花は咲かず・・・これこそが《法華経》の御教えであるかぎり、『無碍の白道』とて同様・・・いかなる泥も、その苦しみを肥やしとしていく私達の心の中に開けて来る道のことだ、と再度銘記したことでありました。
今を盛りと咲く、當山の藤の花に、それぞれの『無碍の白道』を想起してみてはいかがでしょうか?・・・・・
4月に続き、新緑まぶしき5月下旬、法華経の霊山七面山(約1980m)への団参登詣が再び実施されました。
本年の登詣最高齢者は78歳・・・行きも帰りも、ナァ~ント1番。本人はいたって元気そのもの、かくしゃくとしたものでした。何事も、物事に処するは、年齢だけでは計れない・・・実に当り前のことのようですが、私達は常日頃忘れがちかもしれません。
はるか遠くに望む南アルプス連峰の景色。麓に流れる春木川の水のせせらぎ、鳥のさえずり・・・全てに深い生命の息吹を感じながらの道中の歩み。ところが、途中ですれ違う方の中には、「つらい山だ。くたびれたネ・・・あと、どのくらい歩くんですか?」などと聞いてくる一行もチラホラ。その姿を拝見して、「人生の旅もこれなんだなア~」と、気付く一瞬。
お山の上に鎮座する七面大明神様にお会いするという方向づけは、ちゃんとなければいけませんが、『方向づけ』と『目的』とは自ずと違うはずです。目的は、今、この足元の一歩を十分に味わい、楽しんでゆくこと。一歩~を大事に勤め上げてゆくこと・・・。そんな人生を歩めたら、いつ、どこで終っても、文句は言わず・・・そんな旅路でありたい。
処々好処 ― 逃げるすべない私達一人~の人生の旅路ならば、いつでも、どこでも、その一歩~を楽しく明るい景色として頂戴できる方法を考えていきたい・・・そう想ったことでした。
道中2丁目の休憩所に掲げられておりました心の景色を御紹介致しましょう。
日の光 全ての
生命を生かす
蓮の花 泥の中で
浄らかに開く
そのように生きたい
・・・心すべきことだと思います。
栃木県足利フラワーパーク元園長 塚本こなみ先生
根さえ
しっかりしていれば
枝葉は
どんなに
ゆれたって いいじゃないか
風にまかせて おけばいい
~ 相田 みつを ~
當山境域の大樹の剪定、「臥龍の藤」を含めて4つの藤棚の手入れを通し、再々肝に銘じた事・・・『根』の重みは何物にも変え難い、ということでした。
先月中旬、3年越しの念願がついに叶い、公務御繁忙の中を、當山へお越しいただいた方が、藤の名医として全国的に知られる栃木県足利フラワーパーク元園長 塚本こなみ先生でした。
先生の御言葉には、植物といえども、『命』に対する敬虔な祈りにも似た、温情味が随所に溢れていました。
藤に対する私達の目線が、長期的展望に於ける手入れ・管理の領域で良いのか?それとも、抜本的治療が必要とされるのか?・・・「御住職、私は、この藤の30年後、40年後の姿が観えるんです。・・・管理がゆきとどけば、藤の樹齢は優に千年を超えます。御住職一代のみ、綺麗に花が咲くことを望まれますか?・・・それとも藤の風貌が変わり、時には花が咲かない年があっても、次代に、この藤を継承することを願われますか?・・・英断が必要な時期がせまっています。」・・・「時代の流れには逆行することかもしれませんが、・・・自分の命は、自分一人の命ではありませんからねエ~。自分の命を次の世代に継承することで、自分の命が生きる。・・・藤の命も一緒です。」
「そうですか、御住職解りました。・・・日本の文化は継承の文化です。残念ながら現今の日本国民は、受け継ぐことの尊さを失おうとしています。・・責任をもって、命を継承することを御約束致します。」
今年の御盆も責任をもって、命の根(祖先の御魂)を心からお迎えする心構えができた気がします。
本年は、例年になく毎日酷暑の日が続いています。
當山恒例伝統の年中行事、七日法要(8/1~8/7・毎朝5時より約1時間半、本年新盆会をむかえられます檀信徒を対象にした盆供養・法話)も、無事円成し、両肩の荷を下ろしたのも束の間、これからが盆行事本番というところです。
七日法要中、一環して、その話題としましたのは、以前にも御紹介した映画『明日への遺言』(小泉堯史監督・藤田まこと出演)でした。興行中心の現在の映画界にあっては、いささか異色作ということもあってか、今一つ話題にのぼることが少なかったようですが、誇りや品格を見失った現代にこそ観て欲しい「感動の実話」、とだけ申し上げておきます。(今月、DVD発売・レンタル開始)
この映画の中で、B級戦犯 岡田資の妻温子が、我が夫を「偲ぶ」場面が出てまいります。「夫は戦犯として、処刑の席についておりますが、・・・私は、今も尚、岡田資の妻であることを、誇りに思っております。」
誇りに思っております・・・と、いうことは、換言すれば、「恥」の何たるかを、弁えていたということでしょうネ。恥、つまり「泥」の何たるかを、熟知していればこそ・・・ですから、「泥」ではないものに対して、誇りを持てたんだと思います。・・・岡田資自身も無論「泥」の何たるかを良く心得ていたのであり、「泥」ではない・・・誇りを持てるものを、生涯を通して堅持されました。・・・それは何だったか?・・・「妙法蓮華」(妙なる白蓮華)に「南無」することであったに他なりません。
御題目(南無妙法蓮華経)の精神とは、「泥を拝みなさい」・「泥を拝めますか?」と、『毒箭』(毒矢・これは岡田資の著書名)を御釈迦様より射られたようなものです。「泥」は仏様からの「贈り物」であったと、心から拝めた時、泥は泥でなくなり、清浄な白蓮華の花と転ずることができる・・・敗戦後の混乱期を生きた一人の人間・・・岡田資という人は、そうゆう清々しい人でした。
「偲」という漢字には、本来「うまずたゆまず勤め・努力する」という意味があります。
皆様方もど~か先祖累代の御魂をお偲びいただける心豊かな「御盆」をお迎え下さい。
今の時、法華経を信ずる人あり。或は火の如く信ずる人もあり、或は水の如く信ずる人もあり。火の如くと申すは、聴聞する時は燃えたつばかり思えども、遠ざかりぬれば捨つる心あり。水の如くと申すは、いつも退せず信ずるなり。
~ 上野殿御返事 ~
日蓮聖人お論しの信仰の姿とは、「水」の如く退せず、清冽にして、静かな川の流れにたとえられましょう。・・・「受くるは易く、持つは難し。さる間、成仏は持つにあり。」とも仰せです。
発想・構想・理想・理念・信念、これらは全て「今日、只今」・・・私達の生きる目線の角度によって決定される、十人十色の価値観があって当然ですが、しかし、いかなる条件下にあっても、継続し持ち続ける事が至難の業であることは、御理解いただけることだと思います。日蓮聖人に学ぶ清冽な「水」の姿とは・・・
一、自ら活動して、他を働かしむるが、水なり。
一、常に己の進路を求めて止まざるが、水なり。
一、障害にあい、激しくその勢力を倍加し得るが、水なり。
一、自ら潔くして他の汚れを洗い、清濁併せ容るるの器量あるが、水なり。
一、洋々として大海を充し、発しては蒸気となり、雨となり、雪と変じ霰と化し、凍っては玲瓏たる鏡となり、
而も其の性を失はざるが、水なり。
『水の五訓』・・・難しいことですが、常に『水』でありたい。
昭和の名優の一人、緒形拳さんが先日他界されました。
太平洋戦争終戦後の混乱期、デカダン作家として名を成した 太宰治・坂口安吾・織田作之助と並び異色を放った一人に檀一雄がいます。彼は、太宰治と無二の親友として、互いにその作風・人生の価値観を真摯に語り合ったことでも知られています。
緒形拳扮する檀一雄を演じた『火宅の人』は、今尚私の記憶に鮮明に残っています。・・・妙法蓮華経の第三章 譬喩品の中に出てまいります「三界は安きこと無し。 猶を(火宅)の如し」から、檀一雄の著書『火宅の人』は誕生したのでしょう。・・・緒形演ずる檀が、石神井公園を自分の子どもを背負い、手を繋ぎ散歩する場面が出てまいります。観ようによっては悲壮感極まる情景の中で彼の口をついで出た言葉「こまった・こまった!重くてこまった」・・・しかし、彼の表情には満面の笑み。文学者として全ての『火宅』を従容として受け入れようとする覚悟・・・。達観の世界が豊かに語られていたことは印象的でした。
妙法蓮華経の第十章法師品には、次の様にあります。
「如来の滅後に四衆の為に是の法華経を説かんと欲せば、云何してか説くべき。是の善男子・善女人は、如来の室に入り、如来の衣を著、如来の座に坐して、爾して四衆の為に広く斯の経を説くべし。如来の室とは一切衆生の中の大慈悲心是れなり。如来の衣とは柔和忍辱の心是れなり。如来の座とは一切法空是れなり。是の中に安住して、然して後に不懈怠の心を以て、諸の菩薩及び四衆の為に、広く是の法華経を説くべし。」
日蓮聖人にすこしでも倣い、如来の所遣(使者)として如来の事(慈悲の心・柔和にして耐え忍ぶことによりあらゆる外障から身を守る心・怠慢を戒める心)を行ずるものとしての自覚もあらたに、本年第727回、報恩行としての御会式を向かえたいと思います。
『変革』という理念を旗印に、アメリカ史上初の黒人大統領が、来年1月20日に誕生する。
『変革』という言葉には、非常に重いリスクを連想させると同時に、そこには人の心に警鐘を鳴らす、全人類的課題が内在することは間違いないことと思います。
現状の偽装・怠慢を打破し、あるべき本来の姿を模索する時でありましょう。
10月は、日蓮宗寺院にとりましては、御会式月(宗祖日蓮聖人の御命日に執り行う御恩行としての法要)、日蓮聖人も750年前、時のマンネリ化を諌め続けられた、実は、『変革』の人でありました。
「立正安国論」(正法である妙法蓮華経を広め、国家を安ずる治世の要道を説かれた。)を時の政権 北條幕府に建白書としてさし出され、世の闇を破す『真』(ひたすら・一途)の人でもありました。・・・本年年頭に掲げました価値観「自己責任」、併せて『真』の反語でもあり、平成19年度の1年を象徴した漢字『偽』を思い浮かべています。
今年も残すところ2ヵ月を切りました。私達一人~にとっての『変革』・・・Yes We can「そうだ、私達なら(だからこそ)・・・できる!」心に銘記したい言葉です。
平成19年を象徴した『偽』の様相をひきずりつつ、今年も暮れようとしています。
私自身が師走坊主(歳末には布施もなく、おちぶれ、みすぼらしい坊主。変じて心貧しい私欲におぼれた者の譬え)になっていなかったか?・・・
ある実業家の定年後の述懐の中に「私は木を伐るのに忙しくて、斧を見るひまを忘れていた。」と、自らを木こりにたとえ後悔を交えての心のつぶやきがありました。寸暇を惜しんで働きづめに働いて、定年を迎えてみると、木を伐り続けてきた斧、つまり自分自身を見つめ直してみると、刃はボロボロに欠け、しかも錆びついてしまっている。何故自分は、木を伐る合間に、時には斧に油を差し、研くことに気付かなかったのか・・・。
『忙』という漢字は、心を表す「りっしんべん」に「亡」ぼすと書きます。又、「亡」の下に「心」をもってきますと、『忘』れるになりますネ。あまりに忙しすぎると私達は、本当に大事な事・大切な物・・・『真』(一途に・ひたすらに・原点・理念⇒未来像・長期的展望)を忘れて枝葉末節に堕してしまうことでしょう。枝葉末節にも滋養を行き渡らせる為には、其々の根に相当する部分に謙虚に頭を垂れる時でありましょう。
ただ今日 まさになすべきことを 熱心になせ
たれか明日 死のあることを知らんや
~ 釈尊 ~
時間の使い方は、そのまま実は私達の大切な命の使い方になることを学ばせていただきつつ・・・。
御壮健に越年下さいますよう、妙見宮よりお祈り申し上げます。